2010.05.20 Thursday

研究所主宰のこと

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    ジャパニーズ・ニュースタイル


    FDY主宰の山永耕平は第二次世界大戦のさなか、父は教育者、母ともに敬虔なクリスチャンという厳格な家庭の次男として朝鮮(韓国全羅南道)に生まれ、3歳の時、父親の里である九州の山奥(耶馬渓)に引き揚げ、5歳までを暮らし、少年期を福岡で過ごしました。


    教育学部美術科に学んだ学生のころ、木工の道を目指したのは一番心を動かされたからだと言いいます。卒業後、家具屋で職人達と仕事にまみれる体験の後、大学芸術学部に採用になると、鉋の刃砥ぎを日課として、日本独特の鉋の原理を追求をしつつ、学生達の鉋の調整に明け暮れました。

    ノコを使い、ノミを使い、鉋を使って苦労の末に出来上がる喜びを、血がおどると感じたとき、初めて棟札に名を残す祖父のことを知ったと言います。


    椅子のデザインと製作を始めたころより、日本のスタイルを追い求めてきたのは、戦後急成長のため、先進国の物真似ばかりの日本に対するバッシングに、回答するためだったと振り返る。
    イギリスウィンザーチェアの研究は、日本人として、素直に西欧の本流から学びなおす必要があったからです。


    教育者として多くのデザイナーを世に送り出す一方で、デザインだけではなく自らの手で作品を作り続けて40年、会うことはなかったが、祖父が大工、祖母は宮司のむすめ(長女)というDNAに流れる日本人の血が、彼のデザイナーとして、木工家としての生き方を支えてきたのではないか、と68歳になった今、彼は実感している。



    1988 「ベンチシリーズ」より
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